にゃあ、と声が聞こえた。
今のは何だと首を傾げていると、少し間を空けてもう一度聞こえてくる。にゃあ、と今度ははっきりと聞こえたその声に、浩志はゆっくり足を止める。聞こえてきたのは、明らかに猫の鳴き声とは違う、人の声だった。
辺りを見回すまでもなく、目の前でじっと塀を見つめている見知った背中に歩み寄れば、浩志の姿を認めた清舟がにっこりと笑いかける。
「お、ヒロか」
「先生なにしてんだよ」
「見て分かんだろ。にゃんこにちょっかい出してんだよ」
「ちょっかいねえ」
自分の声に猫が反応を示すのが面白いのか、自分の顔より少し高いところにいる猫をじっと見つめたまま動こうとしない。塀の上に座り込んでいる太った猫が、清舟からついと目を逸らし、大きく口を開けて欠伸をした。
猫に見下ろされるっていうのも不思議な気分だなと微笑む清舟は、とても書道家とは思えない、なんとも締まりの無い顔をしていた。半紙に向かう時の、あのしゃんと伸びた背中は何処へやら。左手にビニール袋を提げて、少しだけ背中を丸めた清舟の姿に、浩志は溜息を吐いた。
「にゃー」
先程と変わらぬ声でそう鳴いた清舟に、あの声はやはり先生だったかと苦笑を漏らす。照れ屋でプライドが高いというのに、人前でにゃあにゃあ鳴くのは恥ずかしくないのだろうか。じっと猫を見つめ合い、ふとした拍子ににゃあと鳴き声をあげているのは猫ではなく、清舟の方ばかりだった。
(いい大人が大真面目になにやってんだか)
浩志の溜息にあわせて猫が鳴く。か細いけれど可愛らしい本物の鳴き声に、やっと返事をしたと清舟は顔を綻ばせた。清舟の左手のビニール袋がかさりと音を立てれば、猫の耳がぴくりと動く。袋に入っている新品の墨汁が、どこか寂しげに揺れていた。
「で、なんで先生まで鳴いてんの」
「寄って来ねえかなーって」
「猫アレルギーって言ってなかったか」
触りたくても触れないのだと、心底悔しそうに愚痴を零していたことを思い出す。夕食を運んだ際、赤く気触れた首もとを指さし指摘すれば、俺の話を聞いてくれとまくし立てるように事の詳細を話し始めた清舟に、気圧されつつ延々話を聞いた覚えがあった。
。好きなのに触れない、と子供のように口を尖らせた清舟に、あのときは少しだけ同情した。
清舟は右手をズボンのポケットに入れたまま、それ以上猫に近づこうとはしなかった。猫の眼孔に埋まっているビー玉のように透き通った眼球が、くるりと動く。
「そうなんだけどさ」
ポケットから出した右手で鬱陶しげに髪の毛を掻き上げた清舟の横顔に、浩志は目を奪われる。少し目つきの悪い目元は、普段より優しく細められていた。ふわりと吹いた風が清舟の髪を揺らし、甚平の裾をはためかせる。薄い唇から、綺麗に並んだ白い歯がちらりと覗く。知らず、息をのんだ。
「……やっぱりさ、近くで見たいんだよなぁ」
好きだし。
そう零した清舟の言葉は、浩志の中にぽつりと落ちた。半紙に一滴の墨汁が作る染みのように、じわりと広がって染めていく。詰めていた息を意識してゆっくりと吐き出すけれど、広がった染みは消えそうにない。習字なんて中学校の課題以来ずっと触れていないけれど、半紙に広がる真っ黒な染みは、なぜか鮮明に思い出すことが出来た。
浩志の視線は、いつの間にか清舟から自分のスニーカーへと移っていて、情けないと自嘲する。乱暴にがしがしと頭を掻いてから、誤魔化すように口を開いた。
「全然似てない鳴き声だけどな」
無理矢理に視線を上げても、何故か清舟の顔を見ることができなくて、仕方なしに塀の上の猫を見つめる。目があった猫の抑揚のない視線までもが、情けないと嘲笑っているように見えて浩志は眉を寄せた。
猫は気怠げに尻尾を一振りさせると、清舟へと視線を移した。
「うるさい。そっくりすぎて寄って来たらどうすんだ」
「寄って来て欲しいんじゃなかったのかよ」
「そりゃあ、そうなんだけどさ……」
浩志の言葉に、清舟は考え込むような仕草を見せた。右手を口元に運んで思案する姿が、甚平も相俟ってなかなか様になってはいるのだが、自由に跳ね回っている襟足の髪の毛が印象を少し和らげる。整った顔立ちをしているが、本人はそこまで自分の容姿に重きを置いていないのだろうか。整髪剤も使わずに適当に切り揃えられているだけの髪の毛が、どこか場違いに思えた。
考え込んでいた清舟が顔を上げると、二人の視線が絡み合った。けれどそれは一瞬のことで、瞬きで断ち切られた清舟の視線は、次の瞬間にはもう猫に向かっている。どこかすっきりしたような表情で猫を見る清舟に、浩志は疑問符を浮かべるばかりだ。
「……いいんだよ。この距離で」
そう言って清舟は笑った。
「な、にゃんこ」
清舟の声にも、猫は気怠げに目を閉じて、垂れ下がった尻尾を小さく揺らしただけだった。にゃー、ともう一度鳴きながら嬉しそうに笑う清舟は、手の掛かる都会人で、下手したら子供より子供っぽくて、包丁も握れないこのもん中毒の書道バカ。プライドが高く、意地っ張りで怖がり。こっちがこっぱずかしくなるような事を平気な顔して言うくせに、同じようなことを他人に言われたら顔を真っ赤にして恥ずかしがる変な大人。
それでも、書道に関しては人一倍努力家で、自分にとって尊敬する先生で。それから。
じり、と一歩足を踏み出す。それからもう一歩。踏みつけていた小枝が、スニーカーの下でパキリと音を立てる。
(もっと、近くで)
振り返った清舟の、硯に溜まった墨汁のような深い色をした瞳がふるりと揺れた。それからすっと細められた瞳は更に深さを増し、吸い込まれていくような錯覚を覚える。まるで捕らえられたかのように、目が離せない。ぴくりと動いた自分の手を、眼前ではためく甚平の裾にぎこちなく伸ばしながら、ひゅうと息を吸い込んだ。
もう一歩。
塀の上の猫が、にゃあ、と鳴いた。
墨でひかれたボーダーライン
(止まれ。止まれ。触れるな危険)
あと一歩、もう一歩、貴方の近くに
(2012.10.23)初出(支部)
(2012.11.19)サイトに転載。