「こんなところにいたのかよ」
ようやく見つけた、と呆れたように息を吐いた浩志に、清舟はゆっくりと振り返った。辺りはもう暗く、中天に差し掛かった月が辺りを仄かに照らしているだけだ。
「あ? ヒロか」
なにやってるんだと問いかければ、盛大な溜息が返される。
「それはこっちの台詞」
呆れたように言う浩志に、堤防に腰掛けた清舟が苦笑を漏らす。大の男が、年下の高校生に真面目に心配されているなんて、少し情けないかもしれないと思いながらも、細かいところまで気にかけてくれているこの島の人たちの気質が好きだった。
「あんま夜歩きすんなよー。不良少年」
「やかまし。先生こそ、こんなところでなにしてんだよ」
いつの間に堤防の上まで上ってきたのか、腰を下ろしている清舟の隣に立ったヒロは、腰に手を当てて溜息混じりに問う。普段よく見かける制服のワイシャツではなく、ラフなスウェットとTシャツ姿だ。微かな月明かりに照らされている浩志をぼんやりと見上げると、清舟は少しだけ口の端を上げた。
「月、見てた」
「月?」
「月」
鸚鵡返しにそう言った浩志は、その視線を夜空へと向ける。中天に浮かぶ欠けた月を見つめながら、僅かに首を傾げた。
そりゃそうなるよな、と苦笑を漏らすと、違う違うと手のひらを振りながら訂正した。
「あれじゃなくて、こっち」
そう言って海面を指差せば、浩志の視線が清舟の指先を追う。真っ黒い水面に映った金色の月が、小さな波でゆらゆらと揺れていた。
「なんで月? しかも映ってる方」
「手が震えないかなーって思って」
「……先生アル中?」
「違えよ。……インスピレーションの話」
水面の月に吸い込まれていくかのように、浩志もゆっくりと清舟の隣に腰を下ろした。揺れる水面とそこに反射する微かな月光が、まだ子供っぽさの残る浩志の顔に不思議な陰影を作り出していた。
「インスピレーション……って、字書けねえの?」
「書けねえっていうかなんていうか……まあ、こういうのは焦って書くもんでもないし」
「いや焦れよ。近いんじゃなかったか? 書展」
「うるせ。だからこうやって月見てんだろうが」
本来なら見上げるべき月を眼下に見下ろして、清舟はじっと呼吸を殺す。清舟の、墨のような黒い瞳は、水面の月の光を受けて微かに光を湛えている。
「……月見てたら書けそうなのか?」
「うーん。こう、ビリビリっと来たら書けるんだろうけどなぁ」
「ビリビリ?」
なんだそれ、と浩志が首を傾げる。確かにこの表現では伝わりにくいかもしれない、と清舟は少しだけ身振りを交える。この何とも言い難い感覚を、自分が上手く伝えられるとも思っていないのだが、ほんの少しでもこいつに伝わればいいと思った。
「なんていうか、書きてえ! ってなるときがあるんだよ。たとえば島に来た日、ここで夕日見たとき来たんだよ。ビリビリっと」
「ふーん?」
「身体の真ん中から沸いてきた熱がすげえ勢いで、頭のてっぺんから足の先、爪の先まで走るんだ。……さっき堤防に上がったとき、水面でゆらゆらしてる月を見たらなんかこうじわじわと」
「へぇ……」
「っておまえ、聞いておいて興味なさそうだな」
興味なさげな相槌を打ったきり黙り込んでしまった浩志に、清舟は肩を落とす。どうやら上手く伝えることは出来なかったようで少しもどかしい。そのまま視線も落として水面に映った月を見つめるが、相変わらす自分の掌は震える気配もない。今日はもう駄目かもしれないな、と息を吐くとゆっくりと立ち上がって、服に付いた砂を簡単にはたいた。
「さて、と。そろそろ戻るかな」
そう言って踵を返そうと浩志の方へと視線をやる。ふう、とゆっくり空気を肺から押し出すと、夜独特のすこし冷たい空気が入れ替わりで肺を満たす。
水面の月を見下ろしたままの浩志も、ゆっくりと立ち上がると、しかし顔は上げないままで口を開いた。
「なあ先生、怒るなよ?」
そう言った浩志の声が耳に届いたのと、自分の腰に自分よりずっとしっかりとした腕が回されたのは、ほぼ同時の出来事だった。一瞬だけ清舟の視界に映った浩志の瞳は、どこか怪しげにも見えた。
強い力で背中を押されて、浩志の左手によって清舟の口と鼻が塞がれる。縺れる足もそのままに、強引に押される背中。
「ギリギリまで目ぇ開けてろ!」
耳元で弾けた浩志の声と、それから一瞬の浮遊感で、頭が真っ白になった。
疑問符を浮かべる間もなく、水面に近付いていく自分の視線。まるでスローモーションのように、少しずつ視界の中で大きくなっていく水面の月。
足から水に沈んでいく感覚。服が水を吸い、肌に重く纏わりついた。浩志の手に鼻と口を塞がれていたこともあって、海水が鼻や口から逆流してくることは無かったが、夜の冷たい海水が身体を包む感覚がどこか心地良い。
頭まで海水に沈む直前に、反射的に目を閉じた。
口を塞いでいた浩志の手が離れ、全身を海水が包む。足が着かない不安感から咄嗟に手足をばたつかせると、腰に添えられたままだった浩志の腕が、些か強引に清舟を水面に引き上げた。
気がついたら自分の顔は水面より上まで上がってきていて、自分の身に一体何が起こったのかを少しずつ頭が理解し始めた。
「この馬鹿! お前なにやって……」
「なあ先生っ」
額に張り付いた金色の髪の毛を掻き上げながら、浩志は問うた。
満面の笑みを浮かべた浩志の髪が、月明かりに照らされてきらきらと輝いていた。毛先から滴る水が湛えている光が、ちかちかと目の奥で乱反射する。
噎せ返りそうな磯の香りに包まれたまま、大きく息を吸い込んだ。水面に写る逆さまの月は、二人が起こした波に揺られて不格好に形を変えている。塩辛い唇を無意識のうちに舐めてしまったが、そんなこと気にもならないくらい胸が高鳴っていた。
「手、震えた?」
逆さまの月に飛び込んで
(専門家の指導のもとおこなっています、大変危険ですので試さないで下さい。)
(2013/05/09)Pixiv初出
(2013/06/30)サイトにUP