「憎いんだろう」
 耳に飛び込んできた言葉に主語は無かった。しかしこの言葉の意図するところは、すぐさま理解することが出来た。
「うん」
 反射的に返した。そんなこと、考えるまでも無かった。
「即答か」
「うん」
「だろうな」
 何を思っているのか分からない声。低く響いた小さな笑い声は、どこか心地よく僕の耳を振るわせた。
 満足げに歩き出した彼の背中を見ていると、自分の口から思わず溜息が漏れた。いくら計画の為とはいえ、ついこの間まで本気で殺しあっていた相手に、彼はこうも簡単に背中を向けている。胸の奥底から、何故かじわじわと湧き出てくる苛立ちを押さえきれず、その背中に向けて言葉を投げかけた。
「君が崖の上に立っていたら、きっと僕はためらい無く君の背中を押すよ」
「そうか」
 抑揚の無い答えは、苛立ちに更に拍車をかけた。
 突き落としたいのならそうすればいいとでも言うかのような彼の態度。否、違う。僕が彼の背中を押すことなど絶対にないとでも思っているかのような態度だ。少なくとも、僕にはそう感じられた。
 あの計画を実行に移すためには、僕が彼の背中を押すことはあってはならないのだから。
 だからといって。
「君は無防備すぎる。君がいつも僕に背中を見せるから、僕は僕の手がこの剣に伸びるのを必死に抑えてる。もう少しくらい危機感を持ってくれないと、そのうち君を刺してしまうかもしれない」
「それは困るな。もう少しだけ我慢してくれ」
 困惑の色など混ざっていない声でそんなことを言うものだから、余計に腹が立った。
 やっとその足を止めこちらを見たと思っても、彼はすぐに前を向いて歩き出してしまうのだ。
「君だって同じだろう」
「俺が?」
「君だって、僕が崖の上に立っていたらこの背中を押す。そうだろう?」
 彼は一瞬、瞳を見開いて僅かに口元を歪めた。彼が表情を崩すとは珍しい。嘲笑っているようにも、苦しんでいるようにも見えるその表情を見たら、小さな痛みが胸に走った。
 彼は、わざとらしく大きな溜息を吐くと、吐き捨てるように言った。
「まさか」
 彼と、今日初めて目が合った。反射的に目を逸らそうとしたが、まるで囚われたかのように、彼の瞳から目を離すことは出来なかった。
 ここ最近彼の目を見ていなかったことに気がついた。なぜか自分は真正面から彼の目を見ることが出来ていないのだ。
「君だって、僕が憎いんだろう」
「だから俺はお前を突き落とすって?」
 先に目を逸らしたのは彼だった。ゆっくりと瞬きをして次に目蓋が開いたとき、彼の瞳に僕の姿は映っていなかった。
 彼はまた、僕に背中を向けてゆっくりと歩き出す。
「俺は、そんなことはしないさ」
 ゆっくりと僕から離れていく背中と普段と変わらぬ感情の見えない声に、僕は苛立ちを隠すことが出来なかった。
「なんで! 君は僕のことを」
「そんなの決まってる」
 突然僕があげた叫び声にも、彼は驚きはしない。歩みを止めることも、振り返ることもせずに、彼は続けた。
「お前、崖から落としたくらいじゃ死なないだろう」
「は?」
「お前みたいな体力馬鹿なら、崖を上って帰って来そうだ。どうせ帰ってくるなら無駄だろう」
 空気が優しく揺れた。ふふ、と笑ったらしい彼の表情は、こちらから窺うことは出来なかった。たとえ出来たとしても、彼は表情から感情を読み取らせるなんてことはさせないのだろう。
 彼の真意は、分からないままだった。






隠された思いは
(彼の感情を「信頼」といい、彼の感情を「嫉妬」と呼ぶのだろうか)





そんなに単純な感情じゃない
(2012.04.21)