人影の無い白虎の町の片隅を、エースは一人で歩いていた。灰色の空からは、ひらひらと雪が舞い降りている。白虎の町といってもここは朱雀と白虎の国境の近くで、どちらの領地とも言い難い、所謂グレーゾーンである。今目の前にあるこの町は明らかに国境の向こう、つまり白虎領ということになるだろうが、エースはまだそこに足を踏み入れてはいない。
 交戦中の両国の国境は酷く曖昧で、分かり難いこの上ない。しかし、自分が立っている地面がギリギリ白虎の勢力下であろうということは、なんとなく感じ取ることができた。エースの視界の隅には、明らかに朱雀で作られているものとは思えない四輪の自動車があり、コンクリートの地面にはそれらが無事走行することができるよう、白いインクでラインが引かれているのだから。
「朱き魔人、か」
 突然響いた声にピクリと肩を震わせ振り返った先には、左の目を眼帯で覆った軍人の姿があった。その声は、軍服にしては豪華なその格好には不釣合いなほど、澄んだ耳あたりの良いものだった。
 エースは、軽い咳払いの後にゆっくり口を開く。
「あんたは皇国の将校か。そんなお偉いさまが護衛も付けず、こんな外れの町でいったい何を?」
「それはこちらの台詞だ。かの朱き魔人が、こんなところにたった一人で何をしている」
「別に何も。迷ったんだ」
 エースの言葉に、カトルは呆れたように片眉を上げた。風で乱れた金の髪を鬱陶しげに掻き上げるエース見つめてわざとらしく溜息をつくと、少し大袈裟な動作で肩を竦めた。
 エースの視線はカトルではなく、不規則な動きで舞い降りる雪を追って空へと向けられていた。エース自身、こんな子供騙しのような戯言がこの男に通用するとは微塵も思っていない。相手がどう返すのか、様子を窺うために投げかけた言葉だった。
「……貴様たちの名前からするとここはダウト、とでも言った方がいいのか?」
 雪に合わせて揺れていた瞳が定まる。エースの眉が、一瞬跳ねた。
 確かにエースは、道に迷ってここに来たわけではなかった。かといって、情報収集に来たしてはこの町は白虎の中央から離れすぎているし、戦闘に来たしても、朱の魔人とはいえエース一人でこの町を落とせるわけでもない。それはカトルも充分に分かっている筈である。
 それよりもエースは、自分達の名前が知れていることに驚きを見せた。この男は、エースが思っていたよりも0組のことを調べ上げているようである。
 エースは眉間に皺を寄せた。
「意地が悪いな。ここであんたと言葉遊びをするつもりは無い」
「貴様も固いな。ほんの暇つぶしだ、付き合え」
「僕に情報を吐かせようっていう魂胆か」
「聞き出せるに越したことはないのだがな。相手は何せ朱き魔人だ。元より期待はしていない」
 笑みに歪められているカトルの唇は、この現状を楽しんでいるようにさえ見えた。カトルの真意が読めず、エースは眉間の皺を更に深くする。不満げな態度を隠そうともしないエースに、カトルが苦笑を漏らした。
「貴様が一人で白虎に居るとなれば、仲間たちが心配しているのではないのか」
 唐突に始まった不似合いな世間話に、エースは深々と重い溜息を吐く。武器を装備しておらず些か手持無沙汰だった両腕を組むと、カトルの姿を全て視界に入れられるよう、少しだけ顔を上げた。
 しかしお互いに目を合わせることはなく、淡々と会話だけが進んでいく。
「その言葉、そのまま返す」
 エースの口から、渋々ではあるが先ほどのカトルへの返事が紡がれたことに、カトルは満足げに目を細める。エースの眉間には未だに、深くはないが確かに皺が刻まれていた。
「皇国軍将校様がたった一人でこんなところに来ている方が余程問題だ」
「心配には及ばない。観光で来ているだけだ」
「ダ、ウ、ト。誤魔化すならもう少しマシな嘘をついてくれ」
 カトルの様子を窺うように、エースはゆっくりと腕を組みかえた。引き締められていたエース表情が少しずつ緩み、次第にいつもの調子を取り戻していく。視界をちらつく雪たちに視線を戻したエースを見て、カトルもその隻眼の視線を見慣れた白いそれへと移した。
「そういう貴様こそ、ここに何の用だ」
「迷ったんだ。言っただろ」
「ダウト、と我も言ったはずだが?」
「あんただって僕の質問に答えてないんだからおあいこだ」
「先に問うたのは我なのだがな。仕方ない、ここは大目に見よう」
「それはどうも。随分と優しい准将さまだな」
「さてどうだろうな。今この瞬間も貴様の首を狙っているのかも知れぬぞ」
「ダウト、だ」
 間髪入れず、エースは言い切った。疑いもせずに言いきるエースに、一瞬ではあるが僅かに瞠目したカトルである。
「どうして言い切れる」
「メリットが少ない。それに、あんたが僕を殺す気なら少なくとも今、こんな言葉遊びはしない」
 もちろん判断材料はこれだけではないのだが、エースは確信を持って言えた。ここでエースのことを片付けてしまった方が、大なり小なり皇国に有利に戦局が動くことは目に見えている。それでも、この男ならそうはしないだろうと己の直感が告げていた。ナインじゃあるまいに、なんてことを考えたがエースは小さくかぶりを振った。
「頭の回転は速いようだな」
「朱き魔人、だからな」
 殆ど直感で判断した、一種の賭けのような言葉に対するカトルの賞賛に、エースは苦笑をかみ殺して不敵に笑って見せた。
 それと、とエースは言葉を続ける。
「そういうなら僕だって今もあんたの首を狙ってるかも知れない」
「それは困るな。貴様には白虎特製クリスタルジャマーが効かぬ」
 そんなことを、カトルは少しも困ってなさそうな表情で言い放つものだから、エースはその顔に苦笑の色が浮かぶのを堪えきれなかった。テンポよく進む会話が、少しだけ心地よかった。
「はい、ダウト。困ってない癖によく言うな」
「貴様もダウトだ。我を殺す気なら、貴様はこんな言葉遊びには乗らなかっただろう」
「断らせる気はなかったくせにか」
「選択肢は与えたはずだが?」
「そんなの……」
 しまった、と思った時にはもう遅かった。弾かれたように顔を上げてエースは忌々しげにカトルを睨みつけたが、当のカトルはどこ吹く風である。顔を反らし、くつくつと喉を鳴らしているカトルを見て、エースは不貞腐れたように目を伏せた。
 少しの間の後に、そういえば、と何かを思い出したように口を開いたのはカトルだった。
「まだ名乗っていなかったな」
「は?」
 何を言い出したかとエースは訝しげに表情を歪める。こんな有名人を捕まえて、お名前は? と尋ねるほどエースは無知ではない。馬鹿にされているのかと思ったが、本人はいたって真面目顔である。
「私の名はカトル。カトル・バシュタールだ。覚えておけ」
「別に知ってる」
「そう言うな」
「倒さなきゃならない相手の名前に、意味はない」
「確かに、そうかもしれないな」
 沈黙が二人を包んだ。
 死した者の記憶は消える。それがこの世界の理であるが故に、相手を倒すということは相手の命を奪うことであり、存在を消すことと同義である。消すと決めた存在の記憶になど、意味はないと。エースはそう言っている。その考えはカトルにも理解できたし、同じように考える者がいることも知っている。
 遠くを見つめるように告げたエースに、少々引っかかるものを感じながらカトルは首を捻る。
 沈黙を破ったのはカトルの澄んだ声だった。
「それで、貴様の名はなんという」
 あまりに想定外の言葉に、エースは二の句を継ぐことができなかった。唖然としているエースに、カトルは右の目を細めた。
「……僕の話を聞いてたか」
「無論。しかし私は、目の前にいる少年に名を聞いているだけのことだ。さして問題はあるまい」
 からかい混じりのカトルの言葉に、エースは苦虫を噛み潰したような表情を見せた。カトルは明らかにエースよりも一枚上手で、捕まえようとしても掴み所なくひらりひらりとかわされてしまう。表情には出さないが、それが少し悔しかった。しかしながら、相手をそのように感じているのはエースだけではないのだが、エースはそれを知ることはない。
「さっきは知っていたじゃないか」
「さあな」
 悔し紛れの言葉も、案の定あっさりとかわされる。
 ダウト、と。そう言いかけてやめた。
「エース、だ」
 そう言って顔を上げれば、思っていたよりも近い位置にカトルの顔があった。お互いの視線が交差する。
「そうか」
 カトルの唇が微かに弧を描き、柔らかく微笑んだ。
 それから、おもむろに懐に手を入れたかと思うと、その懐から鎖で繋がれている美しい装飾の施された懐中時計が顔を出した。かちりと音を立てて開くと、輝く鎖が小さく揺れて光を乱反射する。
「おっと、そろそろ時間か」
 文字盤をエースにも見せるように傾けるより早く、エースがカトルの手元を覗き込んだ。
「もうそんな時間か。楽しい時間は早いっていうもんな」
「ダウトだ。随分と不機嫌そうな顔をしていたがな」
「ばれたか。でも、存外悪くはなかった」
「それは良かった。次はゆっくり、二人でディナーでもしながら話すとしようか」
 懐中時計をその懐へと戻すと、カトル少し頤を上げて笑った。エースも笑みを返す。
「それもそうだな。良い店を探しておいてくれると嬉しい」
「私が探すのか。そうだな貴様では手が届かぬような店にでも連れて行ってやるとしよう」
「ははっ流石は皇国のエリート将校だ。白虎の店に僕が行っても平気なのか?」
「気にするな。朱き魔人の舌を唸らせたとなれば店の名も上がろう」
「そうか、わかった。楽しみにしてる」
「また会おう、エース」
「ああ。またな、カトル」
 言い終わらぬうちに、二人は背を向けて歩き出した。その足取りには当然、迷いや躊躇というものは存在するはずはない。二人はそれぞれのあるべき場所へ、振り返ることなく歩いていく。その表情は毅然としたものだった。
 まるで先程の出来事は、白昼夢でもあったかのように。

「ダウト」






うそつきの攻防
(見ていたのは幻だということにして)







音とならずに霧散したのは、果たしてどちらの言葉だったか。
(2012.06.22)