「エース借りてもいい?」
ナギの問いかけに、カヅサは顔を上げた。
「僕の方はもう終わったからお好きにどうぞ」
骨張ってはいるがすらりと長い指で眼鏡のブリッジを押し上げながらカヅサは答える。答えながらも、薬剤が積み重ねられている作業机で途切れることなく手を動かし続けていた。机上は、決して綺麗に整えられているとは言い難いが、雪崩を起こすことはないよう彼なりに整えられているようだった。
今が追い込み時期なのだろうか、普段よりその作業机が少しだけ物が多く乱れているように思えた。足元に落ちている三枚の紙は、恐らく研究報告書か何かを書き損じたものだろう。
ナギは、ついと視線を巡らせると、まだ寝台に横たわっているエースに歩み寄っていった。
「大丈夫か?」
ナギがその顔を覗き込むと、エースの瞼が僅かに震えた。エースの顔の上でひらひらと手のひらを振ると、虚ろだった焦点が少しずつ合わさっていくように、徐々に光を取り戻していく。
「ナギ?」
肘を付いて身体を起こしたエースは、まだ少し視界が霞んでいるのだろうか、ぞんざいに目を擦っている。
「どうしたんだ?」
「クラサメ士官がお呼びだぜ?」
「あ、うん。分かった」
頷いて寝台から降りるエースに、薬は残っていないようだった。ふらつく様子も無くしっかりと立っている。皺を伸ばすようにズボンをパンパンと叩くエースは、顔色も良く、特に問題はなさそうだった。カヅサが人体に害のあるものを嗅がせるとは思えないが、薬品を摂取してしまった以上何が起こるか分からない。それは当然カヅサも同じ考えようで、万一にも異常が起こっていないかと、エースの姿をじっと見つめていた。
二人分の視線を受けたエースが、苦笑まじりに「大丈夫だよ」と言えば、カヅサは息を吐き出してから、もう一度眼鏡のブリッジを押し上げた。
「ナギ君を使わないで自分で来ればいいのにね」
心配なくせに素直じゃないよね、と間延びした声でカヅサが言えば、ナギも苦笑を浮かべる。
薬品の匂いを薄くまとった研究室独特の空気が優しく震える。鼻につく、というほどではないが、扉一枚隔てたクリスタリウムのインクと黴の混ざった匂いとは明らかに違うこの部屋だけの空気が鼻孔をくぐり肺を満たしていく。別段不快ではないが、特に心地いいというわけでもない。
五感の中で、記憶ともっとも密接に繋がっているの嗅覚であると書いてあったのは、果たしてなんという本だったか。
隣で身体を伸ばしているエースに、もう動けるか、と問いかければすぐに頷きが返される。ちらりと窺った表情に偽りの色はない。じゃあいくか、と促せば、少し低い位置にある白金の頭があとに続いた。
「隊長はどこに?」
「軍令部。多分依頼じゃねえの?」
「依頼という名の課題かな。ナギは?」
「俺はちょっと呼び出しをくらっちゃってね」
茶化すように言ったが、その言葉の意味を理解したらしいエースは僅かに表情を硬くした。
「何かあったら言ってくれ。僕たちにできることなら手を貸すから」
「サンキュー。その時は遠慮なく。ま、今回は書類貰いに行くだけなんだけどな」
「ああ」
ナギが扉に手を掛ければ、後ろから声がかかる。
「助かったよエース君。次の子は出来れば女の子がいいなぁ」
「はいはい。声を掛けておくよ」
そう言ったエースがこちらの向き直るのを確認しながら、こちら側からは全く隠れていない隠し扉に力を込めた。
仮面をひとつ、扉をふたつ
(すうと息を吸い込んだ)
お互いに急ぎの呼び出しではないからと、比較的遅い速度で足を進めた。クリスタリウムの絨毯に二人の足が沈む。初めは毛足が長かったのだろうこの絨毯も、長い年月の中で随分と擦れて薄汚れていた。ゆっくり、ゆっくりと足を進めながら、エースが口を開く。
「大丈夫か?」
「え? 何が」
「疲れているみたいだ」
「俺が? そうか?」
心配かけて悪いな、と言いながら微笑んだナギに、エースは呆れたように溜息を零す。真意の掴めない言葉はいつものことだ。そうだと頷いても上手くはぐらかされることは分かっていた。
そうこうしているうちに、エントランスへと繋がる扉が眼前まで来ていた。エースがさらに歩調を緩めれば、二歩ほど先を歩いていたナギが右手で扉を押し開いた。ナギを追って扉をくぐれば、背後でゆっくりと扉が閉まる。バタン、と響く音を背に、また遅い速度で足を進める。
「俺よりもさ」
振り返らずに投げかけてきたナギの言葉に、エースは疑問符を返す。
「え?」
足を止めて肩越しに振り返ったナギは、先ほど閉じたばかりの大きな扉を見やる。その目を追うようにエースも視線を巡らせたが、普段と変わらない、何の変哲もない扉が佇んでいるだけだ。
エントランスとクリスタリウムを繋いでいる見慣れた扉の、その更に奥を見る赤褐色のナギの瞳が、照明を受けて鈍く光った。
「あっちの方が疲れてたみたいだな」
「疲れてた、のか?」
「多分な。二日くらい寝てないんじゃねえの?」
こともなげに紡がれた言葉は目を見張る内容ではあったが、それより先に盛大な溜息がエースの口をついて出た。驚きより、呆れの方が勝った結果だ。睡眠不足は不調が故かそれとも逆か。どちらにしてもあまりよくはない。
通路の真ん中で立ち止まって扉を見つめる二人をクリスタリウムから出てきた訓練生が訝しげに見つめているが、二人の足は止まったまま動き出しはしない。閉じていく扉が、再び大きな音を立てる。
「それ、大丈夫なのか?」
「隠せてるならまだ平気だろ」
そう言って足を進めたナギを、エースは追う。今度は後ろではなく横に並んだエースを視界に認めて、ナギが少しだけ歩調を緩めた。向かう先はもちろん軍令部。普段ならば二分とかからずに辿りつける場所だが、二人分の靴音は小さく響き続けている。
「休ませないのか?」
「言っても無駄無駄」
一段一階と階段をのぼりながら、エースは深く息を吸う。階下にある水のオブジェの所為か、少し湿っぽい空気をゆっくりと吐きだした。隣を歩くナギは中央にある大きな扉をじっと見つめているようで、自分の足元にもすれ違った候補生にも視線を移さない。ナギの視線の先をエースも見つめながら、ほうと息を漏らした。
「ま、本格的にやばくなったらどうにかするさ」
「そうか」
そう頷き返せば、ナギはエースを見て微笑みを返す。
目の前の大きな扉に、今度はエースが手を掛けた。軽く力を込めて押せば、それだけで扉は容易に開く。蝶つがいが立てる軋んだような音を聞きながら、二人は軍令部へと足を踏み入れた。
カヅサとナギの微妙な距離感が好きという話。
(2012.10.14)