腕に抱えた書類に目を下ろし、内心で盛大に溜息を零しながらクラサメは軍令部の扉の前で一礼した。受け取ったばかりの紙は、さしてかさばる量ではないもののずしりと重く感じられ、右腕から左腕へ移してから抱え直した。それからそそくさと踵を返すと、頭の中で就寝までのスケジュールを組み直す。
左側の階段を降りることが、何故か習慣となっていた。
終業時間も過ぎ、間もなく消灯ともなろうこの時間帯に、候補生や訓練生の姿は少ない。各々の寮へと急ぐ姿がちらほら見える程度だ。
最後の一段を踏めば、観葉植物の影から一人の青年が顔を出す。些か乱暴に頭を掻きながら角を曲がると、クラサメと壁の間を器用にすり抜けて、そのまま階段を上がろうと右足を上げる。
「……窮屈か」
視界の隅で翻る赤土色を追いかけながら、クラサメは問うた。候補生に支給されている代わり映えのしないシンプルな革靴が、一段目の踏み板を踏む。そこで足を止めた赤髪にあわせて、翻るマントは緩やかに動きを止めた。
主語のない問いかけが、己に向けられたものであると判断した青年は、訝しげに振り返る。背中を覆い隠した赤土色が、返す踵に沿って膨らんだ。青年の額を覆う臙脂色のバンダナが、グラデーションの髪を掻き上げている。さして変わらない高さにある朱い瞳をじっと見つめると、逸らされることなく視線を返された。踏み上がった一段だけの階段を降りると、なんだと問いかけたげなその瞳がわざとらしく細められる。
「そのマント」
左足に体重を預け気怠げに立つ青年にその胸元を指差し言えば、指を追って視線を下げる。朱い瞳がゆるりと動き、金色の金具を双眸に映した。
金具の細工を指で弾くと、僅かに口の端を上げてからコトリと首を傾げる。少し悩むような仕草を見せてから、その薄い唇を開く。
「そうでもないですよ。……クラサメ士官」
スラックスのポケットに手を入れたまま、なんでもないように言う青年が一歩歩み寄る。汚れはないが少しだけ草臥れた靴が、敷物の敷かれていない大理石を叩く。
長い腕を腰の辺りに添えた姿勢のまま、一息に距離を詰められた。気がつけば目の前に青年の顔があり、知らず息をのむ。朱を湛えた瞳と己のそれとの距離は僅か数センチ。微かな吐息さえ感じられる、鼻先が触れるのではないかという距離で、二人の間の空気がすうと揺れた。
じゃあ、とからかうような声がマスクに吹きかかる。
「息苦しいっすか」
今度は逆に、指差し問われる。吐息混じりの声がマスクに溶けて、ふわりと熱を持った。朱の瞳は未だ、真っ直ぐにクラサメの瞳を見据えたままで、のぞき込んでもそこに温度は見えない。青年の瞳の中で朱に染まった自分に表情はなく、顔の下半分を覆う銀のマスクが場違いに鈍く光っているのが分かった。
「そのマスク」
クラサメのマスクを、整った形の爪の先が、からかうようにコツコツと叩く。口元を覆う銀色のマスクに無意識に手を添えれば、慣れきった凹凸を感じた。手に馴染んだそれは、着けてからもう何年になるだろうか。着け始めた最初の頃でさえ息苦しく、重みを感じもしたマスクだが、今になって改めて意識してみれば、そう邪魔になるものでもない。
腕の中の紙の束が、カサリと小さく音を立てた。
「……そうでもないな」
そう言えば、眼前の瞳がふ、と細められる。ほら、とまたからかうような声が、吐息とともにマスクに吹きかかる。
髪と同じ山吹色の睫が瞳にかかったかと思えば、照明の柔らかい光を吸い込んだ双眸は、あっさりと離れていった。それから青年は、その唇に微笑をのせて、もう一度柔らかく目を細めた。
「そう言うことっす」
青年の胸元で、赤土色が揺れる。同時に転がった金具の朱雀が、照明を反射してクラサメの目の奥でちらついた。ゆっくりと瞬きをすれば、ほうと息を吐き出した。
「なるほどな」
クラサメの言葉を合図に、二人は同時に踵を返した。お互いに図ったわけではないが、自然と会話がぷつりと断ち切れる。
クラサメが肩越しに振り返ると、一段二段と軽快に階段を上がっていった青年は、慣れた様子で軍令部第二作戦課の扉を開いて中に入っていく。
そういえば、あの青年の名はなんと言っただろうか。
視界から消えた茶色を思いながら書類の束を抱え直せば、両腕にかかる重みは不思議と消えている。相変わらず重々しい足音を少しだけ軽やかに刻みながら、クラサメは大魔法陣へと足を進めた。
慣れてしまえばどうって事はない。流れる日常の僅かな一部でしかない。
こんな日常も、そう悲観するものじゃないと。
ふかした言葉が交差する
(段差一段いったりきたり)
公衆の面前、しかも至近距離でおまえらは一体なにをやっているんだ。
(2012.11.19)