ぱしゃりと、微かに水の音がした。
 そんなまさか、と思ったが、続けざまにぱしゃりと、今度こそ確かな音が耳に届いた。






プールサイドの共犯者
(今夜も月夜で作戦会議)






 最終下校時刻はとうに過ぎているのに、鍵が開いたままのプール。最近まで使われていなかったボロプールとはいっても、夜間用の照明はある。しかし、今日はそれには灯りが点ってはいなかった。
 日が落ちてすぐだからか、まだ辺りは暗闇ではない。空はまだ深い青。それでも、もう数十分もしないうちに、この辺りは暗闇に包まれるだろう。
 水音が気になってプールまでやってきたが、心当たりなんて、一つしかなかった。数段の階段を上って、男子更衣室の扉を開ける。そのまま通り抜けてプールサイドへと繋がる扉をもう一つ押し開けば、そこには想像通りの光景があった。

「誰かしらー。こんな時間まで残っているのは」

 階段を上りながらわざとらしく大きな声を出せば、まるで返事するかのように大きな水音が聞こえる。それを追うようにいくつかの小さな水音。プールだから当然と言えば当然の音だが、時間が時間である。隠れる気はないのだろうか。

「こんな時間までなにしてるの。七瀬くん」

 似たようなことは、以前にも何度かあった。活動を始めてすぐの頃や大会前には、どうしても練習時間が足りなくて、もう少しだけ、もう少しだけとお願いに来るマネージャーや部長に付き合って、日が落ちるまで練習に付き添っていた。しかし、今日はそんな報告は受けていないし、そもそも活動日ですらない。見てみれば、見学者席に置かれているのは一人分の荷物。脱ぎ捨てられた制服も、一人分だ。

「他のみんなはどうしたの?」

 声をかければ、すいすいと水を掻き分けて、こちらに寄ってくる。水の中でどこまでも自由になれるこの生徒は、水から顔を上げると首を左右に振って髪から滴る水滴を払った。飛び散った数滴が、乾いたプールサイドに模様を作る。靴に少しだけ雫が飛んだが、不快ではなかった。

「先に帰った」
「橘くんも?」

 彼はなにも言わず、もう一度水に潜った。
 この沈黙は、肯定と受け取って良いのだろう。しかし、僅かに目を反らしたところからすると、無理矢理言いくるめて帰らせたといったところだろうか。彼一人を残して、あの部長が先に帰るとは思い難かったが、実際、今ここには彼一人しかいないのだから、そういうことなのだろう。わかってはいたが、部長は彼に甘い。
 照明もない真っ暗なプールで、ぷかぷかと浮かんでいる彼の表情は、暗くてよく窺うことができない。けれども、それから何回か、潜っては浮かんで潜ってはまた浮かんでを繰り返している彼を見ていると、水の中が心地よいのだろうということだけはよく伝わってきた。無意味だと思えることを何度も飽きずに繰り返す彼の姿に、知らず笑みが漏れる。

「なにしてるのよ、もう」
「別に。泳いでるだけだ」

 いつの間に近寄ってきたのだろうか。すぐ近くの縁からひょっこりと顔を出した彼に驚きつつも、腕を組んで、形だけは問い詰める形を取った。こんな時間まで残っていることを許した覚えはないし、万が一生活指導の先生に見つかりでもしたら大目玉を食らうことは目に見えている。

「そういうことじゃなくてっ。もう下校時刻過ぎてるわよ?」
「黙認してくれてる」
「え?」

 圧倒的に主語の少ない彼の言葉は、理解するのにコツがいる。普段は幼馴染みの彼が通訳のような役割を果たしているために、そこまで難解だと思ったことはなかった。しかし、こうして二人きりで会話をしてみると、どうにもあと一歩、理解まで及ばない。意図が上手く通じないことをもどかしく思ったのか、彼は小さく息を漏らしてから、もう一度口を開いた。

「守衛さん。もう一回見回りに来るときまでに、帰れるようにしておけって」
「……いつもそうなの?」
「たまに」
「もうっ。他の先生に怒られても知らないわよ」
「先生が言わなければバレない」

 そう言うだけ言って、彼はまた水に潜っていく。まるで魚のように水に馴染んで、すいすいと泳ぐ姿は、まるでイルカか、はたまた人魚か。
 一年生の葉月くんや竜ヶ崎くんがやたらと「美しい」と連呼していたのがよく分かる。素人の自分の目から見ても、確かに彼の泳ぎは美しかった。常から大人びた表情を浮かべて表情の変化の乏しい彼だが、水の中にいる彼は誰よりも雄弁だった。水が好きで好きでたまらないのだと、その身体の全てが告げている。
 水に浸かったまま心地よさげに目を伏せる彼が、なぜか羨ましく思えた。

「水、気持ちいい」

 彼が、突然口を開いた。相変わらず言葉の少ない彼がなにを伝えたいのかよく分からず、聞き返すことしかできない。

「え? なにが……」
「もう日差しもない」
「日差し?」
「今なら日焼けしないだろ」

 水面のような瞳にじっと見つめられて、息をのんだ。凪いだ水面のような、とでも言えばいいのだろうか。国語の教師にしてはなんとも陳腐な表現だが、それ以外に例えようがなかった。感情を映さない落ち着いた瞳に、のまれそうになった。

 それから、はっと気付く。

 気が付けば、その瞳に見つめられたまま、ゆっくりと靴を脱いで、ズボンの裾を、膝上まで捲り上げていた。素肌を晒したのは、すごく久しぶりかもしれない。今、自分の眼は、きっと期待に輝いているのだろう。最後につま先を覆う靴下を脱いでから、飛び込み台と飛び込み台の間、少しの段差に腰を下ろした。たったそれだけの動作なのに、心臓はこれまでにないくらい跳ねていた。
 ゆっくりとした動作で素足を水に浸していくと、水温の低さに僅かに身体が震える。足を下ろしきる頃にはその温度にも慣れ、心地よさに目を細めた。左右の足をゆっくりと動かせば、水面がぐにゃりと歪む。自分の足が作り出した小さな波が水面を伝って、少し離れた彼の元まで届いた。

「足だけでいいのか」
「水着なんて今持ってないし、あったとしても絶対に着ないんだから」
「別に、期待なんてしてない」

 そっぽを向いた彼に、耐えきれず笑い声を漏らした。下校時間を過ぎた学校で、不法侵入の共犯者。ちょっとしたいたずら。まるで、自分が学生だった頃に戻ったかのような高揚感だった。自然と唇は弧を描き、胸の奥がじんと熱くなる。切なさとかそう言った類の感情ではなく、単純に楽しさで胸が弾んだ。鼓動が早くなる。まるで小さな子供に戻ったように、抑えきれない思いを吐き出さんと勢いよく足をバタつかせた。
 大きく足を揺らせば、同じように水面も大きく揺れる。悪戯心から、足で掬った水を彼めがけて飛ばせば、水音と共に彼の顔が水浸しになった。彼は一瞬だけ、むっとしたように少し眉根を寄せたが、すぐに身体を返して水中に消える。たぷんと水中に沈んだ黒い陰が近付いてきたと思ったら、足下から勢いよく飛び出してきた。その拍子に弾け飛んだ雫が、ズボンどころかカーディガンも濡らす。仕返しとばかりに、今度は彼の顔に手で掬った水をかければ、濡れた髪を左右に振って雫を飛ばすという更なる反撃にあった。


 一頻り水で遊び終えると、彼はまた仰向けになって、プールの水に身体を預ける。力を抜いて、目を閉じているのだろうか。彼の呼吸の音さえ、耳に届かなかった。

「……本当に気持ち良さそう。ふふっ、私も泳ぎたいわ」
「……泳ぎたければ泳げばいい」
「そうねぇ。……でも、それが許されるのは貴方たちだけよ。私はだめなの」

 疑問符を浮かべる彼を見ながら、少しだけ足を揺らす。ちゃぷんと跳ねた雫が、捲り上げたズボンを僅かに濡らした。
 もしかしたら、自分は彼らが羨ましかったのかもしれない。

「だって、私は大人になっちゃったから」
 無邪気に笑える時は、過ぎてしまった。
 賢く生きようとせずとも、許される貴重な時間が。同じように輝いた時が自分にもあった筈なのに、彼と、その仲間たちの姿は、自分の目には眩しすぎるくらいに輝いて見えるのだ。
 別に、大人になれば泳げないのだと言っているわけではない。けれど、大人になればやりたくともできなくなってしまうこともあるのだと、言いたかっただけなのだ。

(子供の世界っていうのは、大人になるほど綺麗に見えるものなのよね)

 彼の髪からぽたぽたと落ちる雫、呼吸の度に上下する胸、微かに動く指先、水に浸かった足先。いろいろなものが作り出した小さな波が、ぶつかり合って水面を揺らす。光なんて無いはずなのに、ひどく輝いて見えた。

「あなたの泳ぐ姿を見ているだけで、私は充分なのよ」

 そう。
 眩しすぎるくらいに、輝いているのだ。そこには笑顔があって、泣き顔があって、渋面があって。それでも、こんなに輝いている。
 自然と笑顔が浮かんだ。それは苦笑いでも切なさを耐えた笑顔でもない。
 ね、と僅かに首を傾けると、足下で彼も首を傾げていた。先程の言葉を理解できていないようだったけれど、今のうちはそれでいいとも思った。
 水から足を上げれば、滴った雫がまた小さな波紋を作った。今までの自分の日常は、こんなに輝いて見えていただろうか。

 「……さて、そろそろ帰りましょう。風邪引いちゃうわ」

 見上げた空は、深い青を通り過ぎて、最早濃紺へと移っていた。



 プールサイドに上がった彼は、こちらに一枚のタオルを投げて寄越した。これで足を拭けと言うことなのだろう。確かに、足が濡れたままでは靴どころか靴下を履くこともできない。お礼を言う間もなく更衣室へと消えた彼に、心のなかでお礼の言葉を告げてから、遠慮なくそのタオルで足の雫を拭った。
 いつの間にやら制服に着替えて更衣室から出てきた彼が、タオルやら水着やら一式を鞄に詰め込むのを見ながら、ズボンをはたいて埃を落とした。足を拭き終わったあとの少し湿ったタオルを畳めば、骨張った手が伸びてくる。そつがないとは言い難いけれど、確かに気遣われていると分かる、少しだけ不器用な優しさがくすぐったい。その手を避けて、湿ったタオルを両手で抱えた。

「これ、洗って返すわね」
「気にしなくていい。どうせ水着も洗うし」
「これは私の気持ちの問題なの」
「そういうもんか」
「そういうものよ。ほら、古代中国の歴史書にもあるように……」
「わかった。もういい。好きにしろ」
「ふふっ、よろしい」

 半ば強引に押し切って、湿って冷たくなったタオルを持ち直す。シンプルな、男物のスポーツタオルだった。
 まだ僅かに湿っている足をはたいて、細かな砂利を落とす。丸めていた靴下を履いてから、揃えて置いてある靴に足を入れて、捲ったズボンをゆっくりと下ろした。ズボンは少し皺になってしまったけれど、そんなの些細な問題だと思えるくらいに、満たされた時間だった。

「駐車場まで送っていく」
「いいわよ。貴方こそ、早く帰らないと」
「駐車場、反対側だろう。それに、どうせ鍵を返すから」
「あら。それなら、お言葉に甘えようかしら」

 そう言って、プールに鍵をかける年若い紳士のあとを追った。

(まあ。マセちゃって)

 黒い水面が、ゆらゆらと揺れている。隣のグラウンドを照らしている照明から漏れる微かな光を湛えてたゆたむ水面が、きらきらと輝いて見えた。それが彼の瞳のように思われて、また思わず笑みがこぼれる。畳んだタオルを手に持って、ゆっくりとした歩調で駐車場を目指した。
 先程まで水で冷やされていた足が、少し火照る。

 冷たい水が、恋しかった。









 ぱしゃりと、音がする。

 その音を聞きながら、ゆっくりと四段しかない階段を上った。その手にあるのは男物のシンプルなスポーツタオルと、少し結露した一本のスポーツドリンク。それから、可愛らしい大きめのフェイスタオルだ。脱ぎ履きしやすいぺたんこ靴を扉の前で脱ぎ捨てて、その中にさらに脱いだ靴下を入れた。足の裏に小さな砂利がくっつくのも気にせずに、裸足でプールサイドを目指す。

「誰かしらー。こんな時間まで残っているのは」

 返るのはいつも、少し大きな水音だった。






いろいろ感付いた渚たちも乱入してどんどん共犯者が増えても面白い
(2013.08.22)初出(Pixiv)
(2013.08.28)UP