マイクを通したノイズ混じりの声が、耳に響く。己に割り当てられたレーンの前に立てば、水面がまた近くなる。客席には、真琴や渚、怜に江の姿もあるのだろう。分かっていたのだが、遙は一度もそちらに目を向けることはなかった。
スタート位置に立つ。隣から、パチンとゴムを弾く音が聞こえた。
「Take your Mark」
その声と共に、飛び込み台に手を付いて、ゆっくりと吐息を吐き出した。右隣に慣れた気配を感じながら、遙は瞼を落とした。目を開く。次いで響いた電子音に、反射的に足に力を込める。ふくらはぎから爪先へと一瞬にして力が伝わり、一瞬にして身体が宙に浮く。しかしそれも刹那の間で、すらりと伸ばした手の先から、水に包まれていくのを感じた。
みずだ、と遙は頬を緩ませる。平生から表情の変化の乏しい遙の微妙な変化は、真琴ならば簡単に気付くことが出来るだろう。しかし今自分は水の中で、その顔はプールの底に向けられている。真琴ならば、ただ泳いでいるだけのこの姿からでも、この喜びを読み取ってみせるかもしれない。
二回、三回と水を掻けば、その喜びですら頭から追い出されてしまう。今自分が考えなければならないのは、いかにして早く泳ぐか、であるのだから、他のことを考えている余裕はなかった。何かを意識しながら泳ぐのは、得意ではない。たとえば、フォームだとか、順位だとか、タイムだとか。プールの底のラインが近付く。少し先のそれが視界に入ると、遙はくるりと身体を捻った。
いつかと同じ、フリーの100メートル。途中、ターンは一回だけだ。壁を蹴ったのはほぼ同時。右隣から左隣に移った凛の方から、力強い波を感じた。
凛の隣で泳いでいる。
そう実感した途端に、遙は自分の腕が重くなるのを感じた。腕だけではない。頭も、足も、身体全てが、ぐん、とプールの底に引きずられるような感覚に陥った。またこの感覚だ、と遙は歯を食いしばる。
凛に見られながら泳ぐのが嫌いだった。天才を見る目で、自分のことを見る凛が疎ましかった。自分で言うのもなんだが、凛は自分のことを神聖視していたような節があると、前々から遙は思っていたのだ。そんな視線に追われながら水に身体を滑らせることが、苦痛でたまらなかった。おそらく、海に沈んでしまった自分の父親と、遙を重ねていたのだろうと思っている。岩鳶地区でもっとも泳ぎが上手かったという凛の父親も、凛と同じように五輪の出場選手を目指していたのだと、聞いたことがあった。いや、この言い方はおかしいかもしれない。父親の背を追いかけて、凛は五輪代表を目指しているのだから。
それと同じくらい、遙は凛の隣で泳ぐことが苦痛だった。試されているのだと、測られているのだと感じるからだ。フォームの一つ一つから、筋肉の動き、指先の伸ばし方ひとつまで、余すところ無く見られているような錯覚に陥る。もちろん、隣で泳いでいるのだから向こうもこちらを見ている余裕なんてないと、分かってはいる。もしかしたら、隣で泳ぐに足る人物であるか、父親の影を重ねるにふさわしい人物であるのか、試されているのではないかと感じていた。もっとも、そんな影を勝手に重ねられて、こっちはいい迷惑なのだが。
しかし一方で、凛にそのような対象が必要だと言うことも理解していた。早くに居なくなった父親を越えるには、似た人間が必要で、それを越えることで凛は大きく成長するのだろうと。その対象になり得るのは自分しか居ないのだと、自惚れでもなく、理解していた。
息が苦しい。水が重い。タイムや順位を競いながら泳ぐことは、どれだけ繰り返してもどうにも好きになれない。それでも水面から顔を上げて、酸素を求めて大きく息を吸った。ひたすらに水を掻き分ける。
隣に凛が居る。そう思えば思うほど、遙の身体は重くなっていく。水がまとわりついてくるような感覚を振り切ろうと、遙は夢中でストロークを繰り返した。
壁に勢いよく手をついて、二人同時に電光掲示板を見上げた。1、の数字が名前の頭に付いたのは、遙の方だ。次の数字は凛の名前についたが、凛はもう電光掲示板を見てはいなかった。キャップとゴーグルを乱暴に脱ぎ捨てた凛を見て、昔の凛の姿がオーバーラップする。
「畜生! またかよ! また俺は……!」
「……凛」
お前とはもう泳がない、と告げられた時のことはよく覚えている。今思えば、あの時の凛の目には、遙に対する失望にも似た感情が映り込んでいたように思えた。遙は、なぜかそのことが、なにより悔しかったことが忘れられない。決して、自分が失望されたのが悔しかったのではない。他でもない凛が、そんな表情を浮かべれいることが、悔しかったのだ。
捕らえ、そして捕らわれた。折角一度、凛というしがらみから解放されたというのに、どうして自分は、また自ら飛び込もうとしているのか。自由に泳ぐことを渇望しているのに、それとは正反対の言葉を、己の口が告げようとしている。ひどく滑稽だと思うが、それでも良いと思えた。
「凛」
「んだよっ」
唇を噛みしめている凛の全身から、痛いほどに悔しさが伝わってくる。苦しげに伏せられた瞼が、痛々しい。水中に戻った凛の手は、きっと力の限り握りしめられているのだろう。短く切り揃えられた彼の爪が、その皮膚を裂くことは無いだろうが、力を入れれば痕はつく。遙は自分のキャップとゴーグルを脱ぐと、決意と共に一度口を結んだ。
何のために、競争を厭う自分がこの舞台に戻ってきたのか、こいつは知らない。全ては、この言葉を告げるためだった。たった一言。
俺もお前も、言うことが出来なかった、この言葉を。
「また泳ごう」
そう告げて、隣のレーンの凛をまっすぐに見つめた。弾かれたように顔を上げた凛の目が、心なしか潤んでいるよう見える。しかしようやく交わされた視線に、遙の胸は満足感に満たされる。
そうだ。俺を見ろ。目を背けるな。
「もう一度泳ごう、凛。俺と、何度でも」
凛は一度だけ目を見開いて、それから泣きそうに顔を歪めた。ぎり、と歯軋りが聞こえる。鼻の頭が赤くなった凛の顔を見て、相変わらず泣き虫だと、そう言いかけて、口をつぐんだ。代わりに、右手を差し出した。シェイクハンドではなく、ハイタッチのように高めに差し出したそれを、凛は睨みつける。それから盛大に舌打ちを零して、己の右手を叩きつけるように遙のそれに重ねた。バチン、と鈍い音が響いて、水が跳ねる。力強く握られ、絡められた手は、自分のものより少しだけ骨張っていて、サイズも一回り大きい。
もう一度、力を込めて握り返すと、凛の赤い瞳に光が戻った。それと同時に凛の頬を伝った透明な液体は、髪の毛から伝った水だということにしておこう。水面のように揺らめく凛の瞳が、きらきらと輝く。
どちらが勝って、どちらが負けても。何度だって共に泳ごう。もう一回、もう一回を繰り返して、二人で泳ぎ続けよう。歯を食いしばって、拳を握りしめて、舌打ちを交わして、憎まれ口を叩いて。
「……うっせぇよ。当たり前だろうが!」
そう言いながら、凛が浮かべたのは確かに笑顔であった。眉は垂れ下がり、少し不格好ではあったものの、凛の唇の隙間から覗いたのは、鋭く尖った彼の歯で。確かに彼は笑っているのだと、知ることが出来た。
俺たちはもう間違わない。これまでの互いの選択が、間違いであったとは思わないけれど、それでも随分と遠回りしたものだと遙は苦笑を禁じ得なかった。
どちらかが引き上げるのではなく、二人で手を取って共に立ち上がればいい。それがきっと、自分たちのあり方なのだろう。遠回りにすれ違いを重ねて、ようやくその答えにたどり着いた。
互いの眩しさに目が眩んでも、己の醜さに顔をしかめても、正面から互いを、或いはその瞳に映った自分自身を、睨みつけて。
時には、笑いあって。
共に泳ごう。
彼が、或いは、彼らが夢見た未来の形
(これも僕らの幸福の形)
ライバルになりたかったわけじゃなかった。でも、お前が笑うなら。そういう関係も悪くはないと。おれは、お前と泳ぎたいだけだから、お前の笑った顔が、見たいだけだから。
(2013.08.27)初出(pixiv)
(2013.08.28)修正