「要、今日ネクタイ緩めてるね。珍しい」
 そう言うと、弁当を食べ終わり本を読みはじめていた要が顔を上げた。言葉の通り、要の胸元のネクタイは緩められており、Yシャツのボタンもいつもより多く外されている。
 珍しいことに悠太と春は部活からの呼び出しで、千鶴は教師からの呼び出しで席を外している。そのため、現在この場は二人きりなのである。
「別に良いだろ。気分だよ」
 そう答えた要の表情が、僅かに一瞬だけ強張ったように見えた。
 要言う通り、そういう気分だったのか、または単にうざったかっただけなのか、それとも誰かの真似でもしているのか。小さな疑問がポツポツと浮かび、胸の中を満たしていく。
「なんで」
「だから、気分だっつの。俺が緩めてちゃ駄目なのかよ」
「別にダメじゃないけど。なんか」
 そこで口をつぐむ。自分の知らないところで変わってしまうのが無性に気にくわなくて、酷く苛付いた。たったそれだけのことで気分を害している自分も理解できなくて、何とも言いがたい感情だけが、胸の中で澱み、沈澱していく。
「何だよ」
「なんか……」
「なんか?」
「……イヤだ」
 自分の中で渦巻く感情を言葉に出来ず、辛うじて口にできたのはそれだけだった。
「なんだそれ。似合わねえってか?」
「いや、そういうことじゃなくて。あ、そうかも」
「結局そういうことかよ!」
 すぱん、と言葉とともに飛んできた手の平が頭を叩いた。さして痛くも無かったが、取り敢えずいつものように「痛いなぁ」と文句を言えば「うっせ。元はと言えばお前が、」と要が怒りだす。
 いつもと変わらないやり取りがどこか嬉しくて、思わず頬を緩めるが、視界から消えない緩んだネクタイがちらついて仕方がなかった。  要、と呼ぶと、なんだよ、と些か不機嫌そうな声が返される。振り返った要のネクタイを掴んで、締めた。
「なにすんだ。お、おい。締めすぎだ!」
 要の慌てたような制止の声など気にかけず、限界までネクタイを締める。心なしか不格好になったネクタイを、更に締め続けると要の眉間の皺が濃くなる。
「苦しいっつうの!」
 すぱん、と本日二度目の平手打ちが飛んできた。それでも、ネクタイから手を離すことはしなかった。
「痛いよ。いいじゃん、ちょっとぐらい」
「ちょっとじゃねえだろうが! いいから緩めろ」
「何。そんなむきになっちゃって」
「むきになってんのはお前だろ! 何がそんなに気にくわねぇんだよ」
「何って言われても、わかんないんだから仕方ないじゃん」
「あーもう分かったから、緩めろ」
 これ以上続けると気づいてはいけない事に辿り着いてしまうような気がして、潔くネクタイを緩める。思ったよりあっさりと緩めて貰えたことに驚いたのか、要は呆気にとられた表情だった。
「……いいのか? 俺がネクタイ緩めてても」
 嫌なんじゃねぇのか、という要の言葉に、自分がイヤだと言ったら締めてくれるのだろうかと疑問に思う。しかし、今要の緩んだネクタイを見ても、不思議なことに、これといった嫌悪感は抱かなかった。
(なんだ、そういうこと)
 先程までのネクタイと、今のネクタイの違いといえば、ただ一つ。自分はそれに、気付いてしまった。
 遠くから微かに千鶴や春の声がする。もう間もなく、この場に日常が戻ることが分かった。それでも、自覚する前には戻れないことは分かっていた。
 だから、少しだけ。
 意地の悪い言葉を紡いだ。
「俺が緩めたのならいいんです」
 言葉の意味を掴めずに悩めばいいと思った。ネクタイを締める度に、自分のことを思い出せばいい、と。
 要の方に目をやると、要は「なんだそれ」と文句を言いながらも、これ以上そのネクタイに触れることはしなかった。
 どこか満ち足りた気分で、駆けてきた千鶴たちを迎え入れた。






何を見てるの誰を見てるの
(ねぇ、俺を見て。俺以外見ないで)







自覚した独占欲
(2011.01.27)初出
(2011.07.19)加筆修正