壁に掛かっている時計に視線を移すと、丁度午後六時を差していた。
この時間になると流石に外から入ってくる光は少なく、部屋の照明がなければ書類や本を読むことは困難だった。手元の本を閉じ、そろそろだろうか、と考えていると予想通り自分の正面にあるドアの外から微かながら足音が聞こえてきた。少しずつ近付いて来た足音はドアの前に来た所で何故か歩みを止めた。いつも直ぐに聞こえてくる筈のノック音が聞こえてこない事に少しの違和感を覚えるが、躊躇っているように思えるその動作に僅かながら苦笑を漏らすした。
「どうぞお入り下さい。お待ちしておりました、ゼロ」
未だ何の反応も見せないドアへ向かいそう声を掛けると、ゆっくりと扉が開いた。
ゼロは長いマントを揺らし一歩部屋へ踏み込むと、何故か其処で立ち止まってしまった。
「ナナリー陛下、御用件は」
「あら、昨日言いませんでしたか?108の離宮の今後について、です」
もう忘れてしまったのですか、と笑いながら私が返すとゼロは申し訳ない、と言いながら此方へゆっくりと歩みを進めて来た。
自分の耳に届いてくる、少しテンポの遅い小気味良い足音が心地よかった。
近くへ来たゼロへ先日から頼まれていた資料を手渡すと、早速其れをパラパラと捲り少し考え込むような素振りを見せる。そんな仕草がとても様になっていて思わず笑みを浮かべた。兄が考え込む時の癖とそっくりなのだ。恐らくスザクは其れを知っていて真似しているのだろう。其処までせずとも良いのではないか、とも思うが本人は至って真面目にやっているのだから自分の口出しすべき所ではないだろうと思い、心の中に留めた。



目的のことを一通り話を終えて、他愛もない雑談をしていた頃。ふと時計を見上げたゼロが、溜息混じりに口を開いた。
「そろそろ、失礼してもよろしいかな」
その言葉を聞いて自分も時計を見上げると、ゼロと話し始めてからもう2時間近く経過していることに気が付いた。あと15分ほどで8時になってしまう。恐らくゼロは8時から別の予定が入っているのだろう、と思い此方も口を開いた。
「えぇ。此方こそ長い間引き止めてしまい申し訳ありませんでした」
そう答えると、ゼロは躊躇いがちに口を開いた。機械を通していても不快感を覚えない声が耳に届く。
「ナナリー陛下。貴方は今、幸せですか?」
一瞬、その問いの意味を理解することができなかった。
突然の質問に若干の驚きをみせたが、私ははっきりと答えることが出来た。
「えぇ。勿論です」
その言葉は、間違いなく自分の本心であった。悲しいことや辛いことは沢山在ったが、自分を理解し、支えてくれる人が傍に居る。一番に望んだ人はもう居ないけれど、それでも自分は幸せなのだと思う。飢餓に苦しむことはなく、服を着て日々を過ごせる。明日を望んで、今日を生きることが出来る。
最愛の兄が、命と引き換えにくれた明日を。
「それは、良かった」
ゼロは優しい声色でそう告げると、徐に右手の黒い手袋を外した。
露になった白い掌は、そのまま私の頭の上へと乗りゆっくりと撫でた。まるで愛しむかのような優しい動作は、とても懐かしさを覚えるもので、少しずつ視界が歪んでいくのが分かった。その手の平に自分の手を添えようと手を伸ばすが、互いの手が触れる直前にゼロが手を引いてしまった為に其れは叶わなかった。
ゼロは「それでは、」と言いながらドアへと向かって行ってしまう。行き場を失った私の掌が虚しくも空を掴んだ。涙で歪んだ私の視界で、黒い影が動いている。少しでも視界を良くしようと2、3度瞬きすると、溢れ出た温かい雫が頬を伝って自分の膝に落ちたのが分かった。涙を拭い顔を上げると、ゼロが扉のノブに手を掛けている。そんな後姿を見て、私は何故か唐突に理解した。

嗚呼、そうか。

「お兄様」

静まった部屋に自分の小さな声が響いた。
扉が閉まる直前。黒い仮面が此方を振り返ったのだが、無情にも扉は閉まってしまった。








優しく伸びる掌
(その温もりが、彼の人と重なって見えた)








間違える訳が無い。あれは、確かにお兄様の温もりでした。
(2009.05.06)